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思案グラス 1.2

It's under construction.

彼らと過ごした愛しき日々は、『数奇にして模型』の旅


 真実に形はない。作家の仕事とは、真実のプロトタイプを作り出し、形にすることにある。舞台、事件、キャラクタ、トリック……。すべての「真相」をスクラッチビルドできるのは作家だけ。

 それ以外は、どんな推理も模型にすぎない。


数奇にして模型
NUMERICAL MODELS

推理とは、本質を見通し模すること。



■ 事件はいつも、君とのジャーニィ

ただ一つだけ断言できることは、この趣味(そう、最も近い言葉はこれだろう)は、いつも犀川創平の思考に触れる旅だった。

数奇にして模型 NUMERICAL MODELS』
 いつも片手に、殺人事件。西之園萌絵は、お土産のケーキみたいに、それを携えてやって来る。お嬢様の好奇心と強情ぶりに付き合わされ、事件の謎を解きながら、その奥にあるプロトタイプを見通す。それが、犀川創平の常だった。
 彼の推理に重要なのは、トリックを解析することではない。なぜ、どんな道筋で、そこに至ったか。関係者の思考をトレースし、本質を見極めるのが、彼の手法だ。
 その切れ味に触発され、萌絵は、文字通り公私ともに、パートナを勤めてきた。犀川と競うように推理するうち、飛躍しがちなランダム思考が、徐々に論理を組み立て始める。シリーズ後半では探偵役が板につき、彼女が謎を解く場面も増えた。
 時に、ひやっとさせる危うさを孕みながら。


 気がつけば、彼女もすっかり大人になった。おてんばお嬢様は、すでに犀川の思考を先読みできる。彼女が今作で披露する「ね?」のかわいらしさと成長ぶりは、長く付き合ってきたからこそ、愛しく映る。癖の強いキャラクタだけに、余計に感じ入っちゃうのだ。
 かつて『封印再度』で、萌絵が犀川との関係を、アンドロメダに例えたこと、覚えているだろうか? あの頃に比べれば、原付からスポーツカーに乗り換えたくらいには、彼女も、彼との関係も、変わったと思う。


 萌絵がそうであるように。読者もまた、数々の事件を通して、思考に触れる旅をしてきた。犯行の動機や手口をきっかけにした、論理と発想の跳躍。あるいはもっと些細な、日常的な会話も含めて。
 犀川の、萌絵の、キャラクタたちの考えに触れる旅……。それが、「S&Mシリーズ」だ。
 この連作長編も、ついに九作目。完結を目の前にして、これまでの旅路を萌絵が振り返る。その何気ない一言に、なんだかしんみりちゃった。
 妙な言い方だけれど、萌絵は、推理という行為を通して成長してきた。事件と出会い、本質を見通す思考が、彼女を育てた(ついでに、私も大いに育てられた)。旅の終わりが見えてきた本作で、「模型」というモチーフが採用されたこと。

 そこには、シリーズにおける「推理」という行為との、強い結び付きがある。


■ 模型はいつも、彼のホビィ

「…… いいかね。模型が模するのは、形ではない。ものを作り出す精神と行為だ。人が生産する意欲と労力を模するのだ。それによって、その原型を作り出した人間の精神を汲み取る。 ……」

数奇にして模型 NUMERICAL MODELS』
 ここでいう「模型」は、「推理」に置き換えることができる。探偵は事件を通して、犯人の殺意と労力から、その精神を汲み取る。どんな理由で、何を考えて犯行に及んだか。推論という模型を組み上げ、その背景にあるプロトタイプを想像するのだ。

 つまり、推理とは、犯行の本質を模すること。


 この「原型と模型」の関係は、ミステリィというジャンルをよく捉えている。すべての真相は、作家によってのみスクラッチビルドされる。探偵役はそれを推理し、模型を作る。読者は、キャラクタの推理と自分の知識とで、また別の模型を作る。
 なぜ、このトリックが採用されたか。どうして、このモチーフが選ばれたのか。そうやって、組み上げた推論から、作家のオリジナルを見通す行為。それが推理であり、すなわち、「模する」ということである。
 ミステリィには、犯人やトリックを当てる「答え合わせ」の楽しみも、もちろんある。けれど長谷川を介して「形に拘ることは、ただのコピィだな」と言わしめたのは、実にこの作者らしい。
 事件の謎以外にも、作者が仕掛けた「問い」があるなら。それについて考えを巡らせることも、ひとつの楽しみ方といえるだろう。


 ところで、そもそも「模型」という題材は、作者の趣味だ。私もよくプラモデルを作るので、大御坊や喜多が口にすることには、「うわー!わかるー!」と、テンション高めに反応しながら読んだ。
 模型をかじったことのある人なら、思うところのある一冊なだけに。その本質を捉えた思考の鋭さ。ミステリィに仕立てて、ここまでのキャラクタを操る作者の手腕には、客席総立ち。スタンディングオベーションだ。


■ 真相はいつも、ミステリィ

真相がわかった、と本当に言えるだろうか?
誰が誰を殺した。
どんな方法で殺した。
どんな理屈で殺した。
それが、真相なのか?
もしそうなら、今回の事件の真相を、萌絵は理解している。
だが、そんな理解には価値がない。

数奇にして模型 NUMERICAL MODELS』
 はたして殺人事件とは、何をもって「解決」なのか。探偵が果たす役割、推理する意味とは何なのか。犯人が捕まること? 犯行の手口が判明すること? 動機や理屈が語られること?
 犀川と萌絵が対峙する事件は、いずれも、何らかの決着を見ている。しかし、他に真犯人がいるんじゃないか。トリックはもっと別の方法なのではないか……。など、謎を残したまま、真相が明かされないパターンは、決して少なくない。
 二人の推理が正しいとはかぎらないし、仮に事件の真相が正しかったとしても、それで何かが理解できるわけじゃない。ただ、納得のいく理屈をつけて、わかった気になれるだけ

 結局のところ、推理とは模型でしかない。


 まがい物を作って、その背景を想像し、プロトタイプを見通した気になり、満足する。模型も、推理も、それだけのものである。いくら当事者の思考を模しても、オリジナルに届くことは、決してない
 人殺しを理解するには、自らがオリジナルとなる以外にない。つまり、殺すか、殺されるかだ。それほどの危険な目に遭えば、何かがわかるかもしれない。しかしそれを最も多く経験した萌絵は、「幻想だ」と結論付ける。
 「正常と異常」も同じだ。それを分ける一線がどこにあるかを理解するとき、すでにそいつは、一線を越えているだろう。だから、わかったことにして、呑み込むのだ。推理という模型で代替し、「きっと、これが正解 / 正常なのだ」と信じるしか、ない。


 本作で模型がモチーフとなったのは、作者の趣味も多分にあるだろう。しかしこれが、ミステリィという枠を使って描くことに意味のある題材であることは、疑いない。


■ 読書はいつも、私のファミリィ

 少しだけ自分の話をすると、2015年のTVアニメ『すべてがFになる THE PERFECT INSIDER』を見たのが、私にとって、すべてのきっかけでした。
 同じストーリーをなぞるのが嫌いな私は、あまり原作に手をつけません。けれど、何となく『F』の文庫を手に取ったら、アニメとはまた違った面白さが味わえた。文体のおかしみであったり、章や節ごとの、最後の一文のセンスに、すっかり心を掴まれました。
 それからというもの、私の思考は、森博嗣に育てられた。本質を見通す目も、面白ジョークも、言葉づかいも。すべては、彼と彼の作品から学んだこと。キャラクタたちが、そっと諭してくれたこと。


 ある時まで、読書は、時間を忘れ孤独を紛らすものでした。ところが、森作品は少し違う。寄り添って、包んでくれるような、やさしさがある。
 コーヒーと煙草だけが友達みたいな、孤独を抱えたキャラクタが多いからかもしれない。
 それは、あまりにも遅い出会いだった。でも、出会う前と出会った後では、人生が二つに別れるほど、何かが変わった。犀川に導かれ、少しずつ萌絵が変わったように。「アシカとオットセイの違い」で笑えるように。


 この文章を読んでいるあなたと私を繋いだのも、きっと、森作品でしょう。
 名前を記すことはしませんが、私が『F』を読んで以来、SNSで熱心に布教してくださったSさんに。そして、読んでくださったあなたに、感謝します。

 どうもありがとう。





参考と引用

  • 数奇にして模型 NUMERICAL MODELS』(1998)
  • © MORI Hiroshi
    本文中の引用は、順番に、文庫版183, 513, 681・682ページより。




商品情報

数奇にして模型 (講談社文庫)

数奇にして模型 (講談社文庫)

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